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TRPG関連のお話

肉の名前

一つの終わり

桐谷兄妹

 

 

 精神病棟というものは、特に自死を危険視される場所だった。故に、特に自由を規制される場所だった。この短い人生の中で、位置付けはそこに落ち着いた。
 彼の務めていた場所は、精神病の内特に重篤な患者の入院する閉鎖病棟というものだ。今の時代恐怖感を払拭しようと開放病棟を主に宣伝しているが、未だにこういうものは数少なけれど存在する。
 それだけ、人間の脳が肥大した代償は大きいのかもしれない。自死をこうも頻繁に望むのは、それこそ人間くらいだろう。他の動物が自死を望むこともあるが、それは人間のエゴによるものも少なくない。
 彼の妹も、その例に漏れなかった。

 閉鎖病棟で人を殺した彼の前で自死の意思を望むのは、実行に近しいものがある。『この人間であればそれを叶えてくれるだろう』という甘えである。何とも非道い話だ、人でなしにすら愛するものはあるというのに。
 しかし望まれて行わないという選択肢は彼にはない、患者も妹も、『死を与えれば救われる』のだから。
「兄さん」
 瑠璃色のぱっちりとした目は輪郭が朧げで、ぐらぐら揺れている。彼女は確かに彼を見ているつもりなのだろうが、こうなってしまっては何処を見ているか定かではない。
 うっすらと目が弧を描き、彼の手を細く小さな手が取った。体温がある。生きている。しかし、だからこそ彼女は救われない。それを彼は知っている。
「知ってるんです、兄さんが優しい人だということは。 兄さんが必死に勉強して、先生になったのは私の為」
「患者さんを殺したのは、患者さんの為」
「私は、それを、利用するんです」
 いつから其れを知られていたのか、そう思考する余地もなく注射器を握っている右手を彼女の首筋に持って行かれる。自身の心臓が早鐘を打つのが、どこか遠くに聞こえてくる。白い首筋が、血管を探しやすいように伸ばされる。彼女の笑顔は、大輪の花のようにうつくしい。
 全ての光景がこんなにも憎らしく思える日もそうないだろう。彼は、兄は心中でごちた。
 数少ない愛する者へ救いを与える瞬間は途轍も無く至福の時間であるはずなのに、右手は震えて嫌な汗をかく。嬉しそうな妹の顔は何物にも代え難いものであるはずなのに、奥底で何もかもを拒否する自分がいる。しかし、『信念には代えられない』。
「ごめんなさい」

 
震えた彼女の声に、雑然とした思考は焼き切られた。
そうだ、彼女に、救いを。

 

視界が急に開けた気がしたと思えば、彼はもう細い針を愛しい妹に刺して、押し込んでしまっていた。
 視界が揺れているが、彼女の姿だけは微動だにしない。痛覚を感じたのか、彼女は一層笑みを増して彼の手を取る。『彼女は救われる』のだ。だから彼女は心底幸せそうに見えた。
 そうだ、救われるのだ。彼女はもうこの世の理不尽に虐げられることも、あの男が付き纏う幻覚を見ることも、こんな兄と比較されて辱めを受けることも、重苦しい空気の病院に取り残されることも、全て無くなる。あらゆる苦しみが取り除かれて、ゆっくりと眠ることができる。それを救いと言わずして何を救いと呼ぶべきか。そしてそれを与えられる自身の僥倖たるや。
 ふらりと、彼女の身体が揺れたのが見えた。咄嗟にその薄い身体を抱き止めて、閉じかかった眼に畏れをなしてしまう。普段患者にこの処置をする際は倒れようが御構い無しなのに、この差はやはり愛した故なのだろうか。
 彼女ははくはくと小さく口を開き何かを伝えようとするが、吐くのは吐息ばかりで声帯はうまく震えない。彼の手を取る指先が震えて、冷えて、これでは苦しんで死んでしまう。
「マツリ、もう眠ろう」
「次に起きたら、きっとあの親たちとも、ストーカーとも、おれとも関係ない世界にいるから」
 何とか言葉を紡ぐと、目を閉じる間際の彼女が眉間に皺を寄せた。遅かったのだろうか、それとも彼の言葉が気に食わなかったのだろうか。もう彼には分からない。
 ゆっくり眠って、止まっていく彼女を彼は抱きしめることができないでいた。ただ終わるまでを見つめて、呼吸の消えるのを感じていくだけだ。このひと呼吸が最期だろうかと、ひとつ過ぎる毎に考えながら。
「……おれ、マツリの前でくらいいい人でいたかったんだあ」

「けど、多分、マツリは……」
 自分から吐き出される言葉が、自分を傷付けることはとうに理解している。
 だからこそ彼は口を噤み、もう止まるであろう心臓の音を聞いていた。もう何ら接触を行うことはできないが、彼女はそれでもまだ生きていた。鼓動を弱く鳴らしていた。
 ゆっくり、それも小さくなっていく。目を逸らすことができずに時間が過ぎていく。彼女は救われるのだと信じて疑わなかったが、眉間の皺は薄らと刻んで消えないままだ。せめてそれだけでも和らげてやろうと、手を伸ばす。
 かつんと、手から滑り落ちた注射器が落ちた。
「…………」
 眉間に触れた所で、彼女の身体がいっそう重くなったのを感じる。彼女の腕が、足が、胴が重力に従っているのだ。
 それを認識した途端に揺れる視界が止まった。理由は明確だ、彼女は救われたのだから。
 もう苦しいことなどないのだから。

 

「……でもおれ、いい兄さんにはなれたよね?」
 彼は、もう何者でもない肉を呼んだ。