ごっこ遊び
気が病みがちな三木野南瀬はかわいい
『間引キ』のネタバレが含まれます
若干林之助さんをお借りしました
「非道いことをする輩もいたもんだな、南瀬」
あの人が、煙草の匂いが染みついたソファの上で、わたしの髪を撫でている。わたしは心底嬉しそうに、救われたようにその手を享受する。
これは、夢だ。それは知っている。それでも幸せを謳っている。
意識が幸せを謳っていることに、思考のわたしは絶望してしまう。これは、決していい思い出なんかじゃないのに。
しかして、その手は腕はどうしようもなく暖かくて、安らぐものなのだと反芻している。
「でももう大丈夫だ。お前を売ろうとした人間は全部追い払ったから」
優しい声色で、あやすようにあの人は言う。
「ほんとうに、こわかったの」
……うそつき、貴方がわたしを売ろうとしていたのに、そんなに全部優しくして、なんてずるい人だ。
そんな声は出なかった。夢の中のわたしは、夢の中のわたしのものでしかない。わたしはさながら幽霊のようなものだった。昔腐るほど浸らされた幸せを、傍観するしかないのだ。
ああ、どうして今こんな夢を見るんだろう。
「俺が、お前を守ってやれるから」
悪魔のような優しい男が、わたしをソファに押し倒して、にんまりとわらう。
「俺を愛して」
目が覚めると、絶望を報せる朗読が流れてくる。
吐き気が溢れてくる。洗面所はどっちだっただろう。つけっぱなしだったらしいリビングのテレビを消して、身を起こすとそこがソファであったことに気付く。
こんなことで意識は反芻をしてしまうのか。
どうやら部屋で寝なかったことが今回の敗因らしい、足早に洗面所に向かって中身を出せど、黄色みのある液体しか出なかった。異臭がする、喉が焼けるようだ、しかし納得する結果は出なかった。
これだけ急くような足音を鳴らしても、妹がくる気配はない。時計を見れば午前11時だ。多分、仕事に出ている。リビングに戻ってみれば、妹が作ったらしい軽食がテーブルに置かれている。
今日の朝までは、妹はちゃんと生きている。
次に、スマートフォンを見る。昨日送ったメッセージに返信があるか確認する。数人、返事のない人がいる。
返事があっても、お腹のことについて相談してくる内容の人が中にはいる。そういう人は、連続でメッセージが来る。
見たくない。
「うぅっ」
こみ上げる吐き気。洗面所に戻っても何も出てこない。それがおかしなことだとわたしは誤認識する。
本当はあり得べかざるものが出てくるはずなのだ。
それが出ないのにどうしてわたしは生きているのだろう。この身体はもしかしてもう、と思うと足が崩れ落ちる。痛みがある。わたしは生きている。
どうして生きている?
「どうしよう、どうしようさきちゃん」
無意識に口から出るのは妹の名前。手は勝手に妹の番号に掛けている。当然出れない。生きていても生きていなくても、きっとこの時間は出れない。知っている、けど。
出るまで何度でも掛けたくなりそうだから、スマートフォンをソファに投げ出す。きっと大丈夫、妹も生きてる。そう信じるしかない。
ばすり、落下すると同時にバイブレーションの音がした。はっと我に返り、慌てて軌道を追う。
通知欄に出た、「大丈夫ですよ」「どうしたんですか」の文字。
「りんのすけさん」
途端に夢を悪夢として反芻し始める脳が何とも都合が悪い。あの人はそんなのじゃないのに。
返信が不穏なものではないのに、きっとああなってしまうんだからやめてしまえと誰かが言っている。それはテレビの中のキャスターかもしれないし、ちょっと知り合っただけの適当な知人かもしれない。
吐き気がする。
テーブルの上に、鋏が置いてあるのが見える。
手に取ろうとして、きっとあの人は止めるだろうと思って、払いのけた。
「……そっか、だから部屋では寝れないのね」
数日だけあの人が一緒に入っていたベッド。
そんなことに縋るのは、逃避でしかないだなんて思い込んでいる。裏切られた時に立ち直れなくなってしまうと思い込んでいる。
全部知っているから、こんなのごっこ遊びでしかないはずなのに。
あの人と、あの男は違うものだと知っているのに。
でもそんなのただの早とちりだ。まだあの人は、わたしの何でもない。
いつの間にかスマートフォンは自動スリープに入って、何も写さなくなっている。
もう度鋏を手に取る。
「南瀬チャン、何で俺を呼んだの?彼氏呼べばいいのに」
「貴方には、もう何をされても傷付きません。期待してないもの」
呆れた顔で頬杖をつきながら、彼はわたしにペットボトルの水を差し出してくる。排出してばかりで何も入れていない口は、水を飲んでも酸っぱい味がして、余計気持ち悪い。
何故この、最低な男を呼び出したのか。そんなのは簡単だ、この男にはもうどう思われようが気にすることはない。
妹や林之助さんを呼び出すのにこの時間は申し訳ないと考えれば、選択肢は簡単に絞ることができる。
「とりあえず応急処置はしたけどさ、それ隠すの大変だと思うよ」
「……何とかします」
「南瀬チャンはそんなことできるタマじゃないと思うけどね~」
まあ頑張れば、とどうでもよさげな態度で、彼はドアを閉めた。どうでもいいなら、そもそも応じなければいいのに。まだ騙されると思っているのだろうか。
そっと、お腹に触れれば、丁寧に包帯が巻かれているのが憎らしかった。