∴残滓は殴打する
陸守陽日と昔のナイア
∴昔の話をしようか。
まだ僕が何も知らなかった頃。まだ誰も死んでいない頃。誰も悍ましいものを見ていない頃。
僕は勉強しないと何もできない人間だ。筆記しないと覚えられない人間だ。文明の力無しに生きてはいけない人間だ。それを証明するように、常に僕の部屋は紙ゴミで溢れかえっている。それは一人暮らしをして時の過ぎた今も同じことであり、そこかしこにメモが貼り付けられた、奇妙な一室になっている。
昔はこの部屋を定期的に掃除する人間が二人居た。一人は僕の弟、一人は僕の先輩兼友人である新島啓だった。今では弟が一人でたまにやっている。『啓さんが帰ってきたらやってくれるのに』とごちるあたり、弟はさして奇妙な事件に巻き込まれてはいないのだろう。
僕は新島啓が何らかの事件に巻き込まれて死んだのだと考えている。それも、常軌を逸したような事象で。
かく言う僕もそういう事件に数度出くわしているのだが、どうしてか身の危険を悉く回避して現在も生きている。しかも普通の人間では凡そ得ることはないだろう知識を入手し、僕はそれをしっかと手帳に記入してしまった。小さな魔道書の完成である。
破棄してしまえばいいとも思ったが、実際使って便利さを感じてしまったので残している。僕のできることには限界しかない。その限界を広げてくれるのがこの小さな魔道書だが、あまりにも人間から遠ざかった技術なので、僕はこの手帳を棺桶まで持っていくつもりだ。
閑話休題。新島啓の話題が出たのは、つい最近彼の弟である小栗栖実森と連絡を交わしたからである。ついに彼まで奇妙な事象に巻き込まれたらしく、元凶の男が持っていた本が大変まずいものだったとか何とか。
啓と水月に続いて彼もか、と僕は肩を落とした。誰かが死んでしまうとか、そういうことは無かったようだが、見たものは大分悍ましかったらしく暫く喋らせておくと椅子を蹴り始めた。
これは本当に神の悪戯なのかと頭を抱えたくなる。もしかして新島の家とこの家は昔邪神の怒りでも買ったんじゃないかと勘ぐってしまう程だ。
「ははは、君は考えすぎなんだよ陽日」
ふと顔を上げればそこに啓がいた。燦々と降り注ぐ日の光、コンクリートから歪みだす陽炎。袖を捲って暑さをものともしないような顔で、シャッターが閉まった店の軒先にいる。人の悪そうな顔を何となしに緩めて、顰め面する僕の隣で笑っている。蝉の鳴き声は喧しい。
これは、確か僕が最初の離島旅行に行く前のこと。僕はまだ、自分がアウトプットしない限り纏まらない人間であることを知らなかった。
「……記憶の整理がへたくそなんですよ。エリート卒のくせにって笑いますか」
「ううん? 単に君は備えすぎて憂いまくりなだけなんだよ」
「無鉄砲に行動しろと」
「そんなことは言ってない。整理整頓が難しいなら、試しに日記でもつけてみたら? 視覚に出力してみるって、きっと今の君にはいい刺激だよ」
本当に何でもない顔で、手に持っていた缶コーヒーを彼は飲み干す。ゆっくり垂れ落ちる雫は、冷えた缶と空気の暑さで生まれた混合物。アスファルトに落ちて蒸発する。
まるで人の死みたいだ。
無残に死んだ人間の姿を反芻する。それが、今この幻を見ているのが紛れも無い現在の自分であることを証明した。
呼吸が速くなる。虚ろな眼光の何と濁ったことか。何故あんな異形の力を借りなければ救えなかったのか。それとも救うこと自体が間違いだったのか。
「まあ、きっと君なら大丈夫だよ。私の友人なんだからね」
∴その通り、大丈夫になった。
万事何事もなかったかのように。少なくとも世界はそう回っている。
けれど僕は、その世界から欠け落ちた歯車たちの残滓を、奈落の淵からじっと、見つめたままであることを知っていた。
その歯車を追い求める気になれない僕は、いつか奈落の淵を埋め、その作業の途中に足を滑らせる。そうであれと願われることもあれば、そうあってはならないと叱咤されることもある。
少なくとも、全てに見放されるまでは制約を守れ。正義の犬であるあの日の自分が、書類片手に僕を殴った。